7月のテーマ:「日本語の美しさと平和・平安」
はじめに
「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネの福音書1:1)
この有名な聖句が示すように、ことばには力があります。神はことばを通して世界を創造されました。そして人間にことばを与え、関係を築く手段としてくださいました。
日本語には、他の言語にはない独特の美しさと、平和を大切にする心が込められています。今月のテーマでは、この「日本語の美しさと平和・平安」について、歴史的背景や社会の変化を踏まえて考えていきたいと思います。
戦後日本と文化破壊
第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指導のもと、日本には徹底した民主主義が導入されました。しかしそれは同時に、日本の伝統文化の破壊でもありました。
背景には、日露戦争で日本が大国ロシアに勝利したという事実があります。これは世界中の誰もが予想しなかった異例の出来事でした。当時の日本の財政責任者・高橋是清が国債の購入をヨーロッパ諸国に頼んでも、誰も応じなかったほどです。世界は「日本が勝つはずがない」と考えていたのです。
しかし、実際には日本が勝利し、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領(後のF・ルーズベルトの叔父)が和平交渉の仲介をしました。彼はこの勝利に衝撃を受け、「日本は恐ろしいほど強い国になる」と警戒心を抱いたと言われています。
この警戒心は甥のF・ルーズベルトにも伝わり、後に彼が大統領となった際にも日本に対する不安感が根強く残っていました。戦後、GHQのリーダーとして来日したマッカーサーも、フィリピン戦線で日本軍に苦戦した経験を持ち、日本が再び強国になることを防ぐための指導方針をとったのです。そうして押し付けられたのが、現在の日本国憲法です。
現代日本の精神的空洞とモラルの低下
戦後80年が経ち、表面的には平和で安定した社会のように見えますが、人々の心の中には空虚さが広がっています。信仰や精神性が失われ、無神論的な考え方が社会に根を下ろしてしまいました。
「自分さえ良ければいい」「楽しく豊かに暮らせればそれでいい」といった価値観が広がる中、かつての義侠心や他者への敬意は薄れつつあります。
最近のニュースを見ても、小中学校の教員による不祥事、警察官の窃盗、裁判官の問題行動など、公的立場にある人々までもが倫理を見失っている例が後を絶ちません。
日本語に込められた平和への願い
そんな中にあって、日本語には他者を思いやり、敬う心が表現されています。たとえば、日本の挨拶は頭を下げることで始まります。これは相手への信頼を示す行動です。また、日本語には「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」などがあり、自分を低くして相手を立てる姿勢が言葉に表れています。
たとえば、「見る」は「拝見する」、「行く」は「参る」、「言う」は「申し上げる」など、相手を高く評価する言葉遣いが使われます。こうした言葉文化が、日本人の平和を愛する心と結びついています。
男女の在り方と愛のかたち
日本語の中には、特に女性のあり方についても、助け合いと謙虚さの美しさが込められています。古くから、妻は夫を助け、できない部分を補う存在として尊ばれてきました。一歩下がって支える姿に、深い魅力があるとされてきたのです。
しかし近年では、「男女平等」「権利」といった言葉が強調されるあまり、かつての美徳が見失われがちです。
たとえば、「夫よ死んでくれないか」という刺激的なタイトルの小説も出版され、結婚の現実や孤独を訴える女性たちの声が話題になっています。思い描いた理想と現実のギャップの中で、人を愛することの意味が見失われているのです。
しかし、聖書はこう語ります。
「人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)
真の愛とは、自分の利益のためではなく、相手のために自分を捧げることです。今の時代だからこそ、このみことばを心に刻み、愛を実践する者でありたいと願います。
結びに
戦後の激動の中で、日本は文化や精神性を大きく揺さぶられてきました。しかし、日本語という美しいことばには、今も平和と敬意、そして思いやりの心が息づいています。
私たち一人ひとりが、神のことばに立ち返り、自分のことばと行動を見つめ直し、周りの人と平和を築く存在となれるよう願います。