エペソの教会は、偶像礼拝や魔術が日常の中に深く根づいた町に生まれました。人々はアルテミス神殿を中心に生活し、商売、家族の守り、病の癒しなどを神殿や見えない力に頼っていました。そのような中で福音を信じることは、単に宗教を変えることではなく、「何を頼りに生きるのか」という人生の土台が変えられる出来事でした。...
5月からの歩みとして、「教会の姿」というテーマを掲げて、エペソ人への手紙を通して御言葉を見ていきたいと思います。教会とは何か。どのように建てられ、どのように生きるべきなのか。その本質がこの手紙の中に豊かに語られています。御言葉に耳を傾けながら、神さまが思い描いておられる教会の姿を受け取り、私たち自身の歩みとして深めていきたいと願っています。 まず、この手紙が送られたエペソという町を思い浮かべてみましょう。エペソはローマ帝国の重要な港町で、商業と文化が栄えた大都市でした。その中心にはアルテミス神殿があり、人々は偶像を拝み、魔術や呪術も盛んに行っていました。つまり、経済的には豊かでありながら、霊的には偶像に満ちた町でした。 そのような中で教会はパウロの宣教によって始まりました。パウロは約3年間エペソに滞在し、最初はユダヤ人の会堂で語りましたが、やがて対立が起こり、ツラノの講堂へと場所を移して教え続けました。より多くの人が出入りできる場へと広がる中で、福音は町全体へと伝わっていきました。また、アクラとプリスキラ、アポロといった働き人たちも用いられ、教会はしっかりと土台を据えられていきました。 特に印象的なのは、人々に起こった変化です。魔術の書物が持ち寄られて焼き捨てられ、その価値は銀貨5万枚にもなりました。現在の感覚では数億円規模とも言えるほどの大きな額です。さらに偶像に関わる産業が揺らぐほど、福音は人々の生き方を変えていきました。これは単なる信仰の広がりではなく、町の価値観そのものが変えられる出来事でした。 こうして教会は力強く始まり、やがて成熟していきます。パウロはエペソ人への手紙を通して、教会はキリストのからだであり、恵みによって一つとされた共同体であることを教えました。またテモテが牧会を担い、教会は整えられていきました。 しかしその後、黙示録2章4節で主は「初めの愛から離れてしまった」と語られます。教えは正しく、働きもありましたが、主への愛が冷えていたのです。外から見れば立派でも、内側の中心が弱くなっていたのです。 エペソの町もまた、港の埋没や地震、環境悪化によって徐々に衰退していきました。一度に滅びたのではなく、少しずつ力を失っていったのです。外からは立派に見えても、土台が崩れるとやがて衰えていく。この姿は教会にも通じます。愛という土台を失うと、見えないところから力が弱まっていくのです。 では御言葉、エペソ人への手紙1章3節から14節を見ていきましょう。ここには「神さまがすでに何をしてくださったか」が語られています。 父なる神さまは、世界の基の置かれる前から私たちを選ばれました。私たちの行いや努力よりも前に、神さまの愛が先にあったのです。次に御子イエスさまにあって、十字架による贖いと罪の赦しが与えられました。そして聖霊さまは、その救いを確かなものとして私たちの内に刻んでくださいます。 ここで言われている「証印」と「保証」とは、「これは確かにあなたのものだ」という神さまのしるしです。私たちの救いは、気分や状態に左右されるものではなく、神さまご自身によって支えられている確かなものなのです。 そしてこのすべてには目的があります。それは神さまの栄光があらわされるためです。私たちが救われ、守られ、導かれていくその歩みを通して、神さまのすばらしさがあらわされていくのです。 この箇所の流れは明確です。神さまが選び、キリストによって救いを成し遂げ、聖霊によってそれを確かなものとし、すべてが神さまの栄光へと導かれていくのです。 ですから救いは自分の努力によるものではなく、恵みによって与えられたものです。私たちはすでに祝福されており、その中に生かされています。ここに立つとき、「何かを得ようとする信仰」から、「すでに与えられている恵みに生きる信仰」へと変えられていきます。 私たちは神の作品として造られ、それぞれに意味を持って生かされています。そして備えられた歩みの中へと導かれていきます。 この恵みに立って、主への愛を新たにされながら歩む一週間とさせていただきましょう。
<復活と教会> 聖霊を受けよ ヨハネ20章19~23節...
見えない主と共に歩くエマオの物語は、絶望のただ中にある人に希望を示します。二人の弟子は、イエスさまの十字架によって望みを失い、エルサレムを離れて歩いていました。その道は挫折と失意の帰り道でした。しかしそのとき、復活の主はすでに彼らに近づき、共に歩いておられました。彼らの目はさえぎられていて気づきませんでしたが、「見えないことは不在ではない」という真理がここにあります。主は、疑いと悲しみの中にいる時にも、静かに寄り添っておられます。 主はまず彼らの言葉に耳を傾け、失望を受け止められました。そして聖書全体を通して、メシアが苦しみを経て栄光に入ることが神さまのご計画であったと解き明かされました。彼らにとって敗北であった十字架が、救いの御業であったと理解したとき、心は内に燃え始めます。状況が変わらなくても、その意味が神さまの視点で照らされるとき、人の内側に新しい力が生まれるのです。 さらに主は食卓においてパンを裂き、ご自身を現されました。みことばによる理解に加えて、交わりの中で主ははっきりと示されます。日常の中に主を招き入れるとき、私たちの目もまた開かれていきます。 そして弟子たちはすぐに立ち上がり、夜の道をエルサレムへ引き返しました。絶望の道は希望の道へと変えられたのです。主に出会うことは、方向転換をもたらし、歩みを新しくします。この物語は、私たちにも語りかけます。たとえ見えなくても主は共におられ、みことばと交わりを通して心を燃やし、新しい一歩へと導いてくださいます。エマオの道は終わりではなく、主と出会う恵みの始まりの道なのです。 著:中澤竜生
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」...
空の墓 ルカによる福音書 24章1節から12節 空の墓の出来事から、みことばに耳を傾けてまいりたいと思います。 この箇所は、イエスさまの復活を告げる非常に重要な場面です。しかし同時に、人が神さまの御業をどのように受け止めるのか、その難しさも描かれています。...
【主任牧師挨拶】 教会にとって最も大切なことは、主イエスさまに対する関心の目を閉ざさないことです。どのような時にも、イエス・キリストに心を向け続けることが、私たちの信仰の土台であると信じています。...
1 聖書の預言の確かさ 預言は人間の思いつきではなく、聖霊に動かされて語られた神のことばである(IIペテロ1:20–21)。 だから聖書は私的解釈ではなく、神の啓示として受け取るべきものである。 神は見えないお方だが、ことばによって創造し、今も働いておられる(創世記1章、ヨハネ1:1、4:24)。 2 神のことばは現実となる...
創世記3章1節〜10節 1 創世記3章は現代社会の姿を映している アダムとエバは、神さまのことばよりも「目に見える魅力」を選びました。 その結果、罪を犯し、恐れ、隠れ、神さまから離れました。 神さまの「あなたはどこにいるのか」という問いは、今の私たちにも向けられています。 2 サタンの特徴は「疑わせること」...
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