聖書箇所:マタイの福音書7章7~11節
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、捜す者は見つけ、たたく者には開かれます。」
この御言葉は、イエス様が山上の説教の中で語られた有名な言葉です。多くの人がこの言葉を知っていますが、改めて考えてみたいと思います。イエス様は何を求めなさいと言われたのでしょうか。何を捜しなさいと言われたのでしょうか。そして何の戸をたたきなさいと言われたのでしょうか。
私たちは日々の生活の中で様々なものを求めています。健康を求め、仕事を求め、平安を求め、家族の幸せを求めます。それ自体は決して悪いことではありません。しかしイエス様がここで教えられているのは、それらの必要を神様のもとへ持って行きなさいということです。人の力には限界があります。しかし神様には限界がありません。だから神様に向かって求め続けなさい、捜し続けなさい、たたき続けなさいと教えられているのです。
この御言葉を具体的に生きた人物が、マルコの福音書5章に登場する長血を患った女性です。
彼女は十二年間も病気に苦しんでいました。当時の医学で治療を受け続けましたが回復することはなく、むしろ悪くなる一方でした。治療のために財産も使い果たしてしまいました。肉体的な苦しみだけではありません。当時のユダヤ社会では、出血を伴う病は汚れと考えられていました。そのため人との交わりも制限され、社会から孤立した生活を送らなければなりませんでした。
十二年という年月は決して短くありません。もし二十歳で病になったなら三十二歳です。三十歳なら四十二歳です。人生の大切な時間が病によって奪われてしまったのです。
彼女はどれほど祈ったでしょうか。どれほど涙を流したでしょうか。どれほど「なぜ私だけが」と思ったでしょうか。しかし彼女はあきらめませんでした。
ある日、彼女はイエス様のうわさを耳にしました。病人を癒やし、苦しむ人を助けておられるという話です。そこで彼女は群衆の中へ入りました。本来なら人混みに入ることさえ許されない立場でした。しかし彼女には最後の希望がありました。
「お着物にさわることでもできれば、きっと治る。」
その思いだけで前へ進みました。群衆をかき分け、後ろから近づき、そっと衣に触れました。
すると、その瞬間に癒やしが起こりました。
彼女はまさに求め続けた人でした。捜し続けた人でした。たたき続けた人でした。そしてついに神様の恵みに触れたのです。
しかしここで興味深いことがあります。
イエス様は、「誰がわたしの着物に触ったのですか」と言われました。
もちろんイエス様は知らなかったわけではありません。全てをご存じのお方です。それでもあえて問いかけられました。
なぜでしょうか。
それは、この女性を人々の前に立たせるためでした。
女性は恐れながら前に出て、事の次第をすべて打ち明けました。するとイエス様はこう言われました。
「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
イエス様はただ病気を治しただけではありませんでした。十二年間失われていた尊厳を回復し、人々との関係を回復し、家族との交わりを回復されたのです。
神様の恵みは、私たちが考えるよりもはるかに大きいのです。
実はこの出来事の途中で、もう一つの出来事が進んでいました。
会堂管理者ヤイロの娘が死にかけていたのです。
ヤイロは社会的に地位のある人物でした。しかし愛する娘の命の前では、その立場も名誉も関係ありませんでした。彼はイエス様の足元にひれ伏してお願いしました。
「どうか来てください。娘の上に御手を置いてください。」
それは父親としての必死の祈りでした。
しかしイエス様が長血の女性と話している間に、娘は亡くなってしまいました。
人々は言いました。
「もう先生を煩わすことはありません。」
つまり、「もう手遅れです」ということです。
しかしイエス様はヤイロに言われました。
「恐れないで、ただ信じていなさい。」
そして家へ行き、少女の手を取って、
「タリタ、クミ(少女よ、起きなさい)」
と言われました。
すると少女は立ち上がったのです。
ここに示されているのは、病だけでなく死に対しても権威を持っておられる主のお姿です。
私たちは人生の中で限界を経験します。
人間関係の限界があります。健康の限界があります。経済の限界があります。努力の限界があります。そして最後には死という限界があります。
しかし聖書は語ります。
人の限界は神様の終わりではない。むしろ神様の御業が始まる場所であると。
私自身もそのことを経験しました。
二十一歳の時、交通事故を起こしました。被害者の方は意識不明となり、三日後に亡くなられました。私の人生は終わったと思いました。未来は閉ざされ、希望の光は消えたように感じました。
しかしそのような私を神様は見捨てませんでした。
絶望の中で神様が私を探し出してくださいました。聖書の言葉を通して、教会を通して、人々の祈りを通して、神様は私の人生を支えてくださいました。
今こうして皆さんに聖書のお話をしていること自体が、神様の恵み以外の何ものでもありません。
そして最後に覚えたいことがあります。
私たちは「求めなさい」「捜しなさい」「たたきなさい」という言葉を聞くと、私たちが神様を探しているように思います。
しかし実は聖書全体を見ると、その前に神様の方が私たちを探しておられるのです。
黙示録3章20節にはこうあります。
「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは彼のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
私たちが神様を求める前に、神様が私たちを求めておられます。
私たちが神様を捜す前に、神様が私たちを捜しておられます。
私たちが神様の戸をたたく前に、神様が私たちの心の戸をたたいておられるのです。
だから私たちは安心して主のもとへ行くことができます。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
今日も私たちを愛し、私たちを捜し続けておられる天の父を信頼し、祈りつつ歩んでまいりましょう。アーメン。
著:図師宝
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