絶えず祈りなさい

 

聖書箇所:第一テサロニケ5章16~18節
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」


6月に入り、私たちは「祈り」をテーマに礼拝を続けています。祈りは、人にとって欠かすことのできない大切なものです。また、クリスチャンにとって祈りは、キリストの体である教会を健やかに保つための血液のようなものです。血液が全身に命を運ぶように、祈りは教会を生かし、一人ひとりの信仰を結び合わせ、神様の恵みと力を全体に行き渡らせます。
先月、私たちは「キリストの体としての教会」について学びました。体は目だけでも、手だけでも成り立ちません。さまざまな器官が互いに支え合い、一つの体として生きています。同じように、教会も一人だけで成り立つものではありません。年齢も、育った環境も、賜物も違う一人ひとりが、キリストを頭として結ばれ、支え合いながら歩んでいます。そして、そのキリストの体を生かし続けるものが祈りです。だからこそ私たちは、この大切な祈りを一日たりとも忘れることなく、神様を見上げながら歩んでいきたいと思います。
この手紙が送られたテサロニケは、現在のギリシャ北部にあるテッサロニキです。新約聖書の時代には、ローマ帝国を代表する重要な都市の一つでした。エーゲ海北部に面した良い港があり、さらにローマ帝国の東西を結ぶエグナティア街道が町を通っていました。そのため、多くの商人、旅行者、軍人、政治家が行き交い、ギリシャ人、ローマ人、ユダヤ人、東方から来た人々など、多様な民族が暮らす国際都市となっていました。
しかし、そこは信仰を守ることが簡単な町ではありませんでした。ゼウス、アポロ、アルテミス、ディオニュソスなど、多くの神々が礼拝されていました。またローマ社会では、皇帝に忠誠を示すことも求められていました。そのような中で、「イエスは主である」と告白することは、単なる個人の信仰ではなく、生き方そのものを問われることでした。
使徒の働き17章によれば、パウロはテサロニケに到着すると、まずユダヤ人の会堂に入り、三回の安息日にわたって聖書から語りました。メシアは苦しみを受け、死者の中から復活すること、そしてイエスこそキリストであることを伝えたのです。その結果、ユダヤ人の一部だけでなく、多くのギリシャ人や有力な婦人たちも信仰へと導かれました。
ところが福音が広がるにつれて、反対も激しくなりました。反対する人々は暴徒を集めて騒動を起こし、「世界中を騒がせてきた者たちが、ここにも来ている」とパウロたちを非難しました。そして、「イエスという別の王がいると言って、カイザルの勅令に背いている」と訴えたのです。そのためパウロは、夜のうちにテサロニケを離れ、ベレアへ向かわなければなりませんでした。
こうして生まれたテサロニケ教会は、まだ若い教会でした。しかし彼らは、反対や困難の中にあっても信仰を守り続けました。パウロは彼らのことを、「信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐」を持つ教会として評価しています。彼らは偶像礼拝から離れ、生けるまことの神に仕え、再び来られるイエス・キリストを待ち望んでいました。
そのような教会に対して、パウロは手紙の終わりに大切な勧めを記しました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」これは、何の苦しみもない人々に向けられた言葉ではありません。困難や圧力の中にあっても、神様を見上げて歩もうとする信徒たちへの励ましの言葉なのです。
しかし、「絶えず祈りなさい」と聞くと、私たちは少し戸惑うかもしれません。「一日中祈り続けることなどできない」「仕事や家事をしながら、どうやって祈ればよいのだろう」と感じる方もいるでしょう。けれども、パウロが言っているのは、二十四時間、言葉を口にして祈り続けなさいということではありません。神様との交わりを保ち続けなさい、神様を忘れずに生きなさい、ということです。
たとえば、家族のことを考えてみてください。夫婦は一日中会話しているわけではありません。しかし、会話をしていない時間も、互いの関係が切れているわけではありません。親は仕事をしている時でも子どものことを思い、子どもも親の存在を心のどこかで覚えています。同じように、祈りとは神様との関係を保ち続けることです。
朝起きた時に、「神様、今日も一日を守ってください」と祈る。食事の前に、「今日の糧を感謝します」と祈る。困った時に、「主よ、助けてください」と祈る。嬉しいことがあった時に、「ありがとうございます」と祈る。不安な時には、「この思いをあなたに委ねます」と祈る。そのように、日常の中で神様に心を向けながら歩むことが、絶えず祈ることなのです。
キリスト教の祈りは、決まった言葉を繰り返して神様に認めてもらうためのものではありません。神様に点数をもらうための宗教的な行為でもありません。祈りとは、天のお父さまに話しかけることです。嬉しい時には感謝を伝え、悲しい時には涙をもって助けを求め、迷う時には導きを願うことです。私たちは飾らない言葉で、ありのままの心を神様に申し上げることができます。
では、なぜ私たちは絶えず祈る必要があるのでしょうか。それは、私たちが弱い存在だからです。イエス様は弟子たちに、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」と言われました。弟子たちは、自分たちなら最後までイエス様に従えると思っていました。しかし祈ることをやめた時、恐れに負けて逃げ出してしまいました。ペテロも、「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」と言いましたが、その後、三度もイエス様を知らないと言ってしまいました。
祈りを失うと、人は自分の力だけに頼るようになります。しかし、自分の力だけでは限界があります。現代は、スマートフォンを開けば多くの情報を得ることができます。AIに尋ねれば、さまざまな答えや知識を知ることもできます。しかし、情報だけでは心の不安を取り除くことはできません。病気の時、悲しみの時、将来が見えない時、私たちに本当に必要なのは、神様とのつながりです。
祈りは、私たちの信仰の命綱です。船が錨を失えば、波や風に流されてしまいます。同じように、祈りを失うと、私たちの心は不安や誘惑、周囲の言葉や状況に流されやすくなります。だからこそパウロは、「絶えず祈りなさい」と勧めているのです。
祈りの大きな祝福は、問題がすぐに解決することだけではありません。もちろん、神様は私たちの祈りに答えてくださいます。しかし祈りの最大の恵みは、神様ご自身が私たちと共にいてくださることです。
パウロはピリピ人への手紙4章で、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」と語りました。そして続けて、「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いを守ってくれます」と約束しています。
祈りとは、自分だけで抱え続けていた重荷を神様に委ねることです。自分ではどうすることもできない問題を、神様の御手にお渡しすることです。すると、状況がすぐに変わらなくても、私たちの心に平安が与えられます。
東日本大震災の被災地でも、多くの方々が先の見えない不安の中に置かれました。家族を失った方、住む場所を失った方、仕事や日常を失った方もおられました。そのような中で、祈り続けた人々は、「神様が共にいてくださる」という慰めを受けました。祈りは苦しみを消す魔法ではありません。しかし、苦しみの中で私たちを支え、神様の御手へと導く力があります。
今日の箇所では、「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」「すべてのことについて感謝しなさい」という三つの言葉が並んでいます。これは別々の命令ではありません。祈りがあるから、私たちは苦しみの中でも神様を見上げ、喜びを失わずに歩むことができます。祈りがあるから、すべてが順調でなくても、神様が共にいてくださることを感謝できるのです。
感謝とは、苦しいことそのものを喜ぶことではありません。また、悪いことを良いことだと言うことでもありません。どのような時にも神様が共にいてくださり、私たちを見捨てず、導いてくださることを信じる時に、感謝が生まれるのです。
最後に、なぜ私たちは神様に祈ることができるのでしょうか。それは、イエス・キリストが十字架によって、私たちと神様との間を結んでくださったからです。罪によって神様から離れていた私たちのために、イエス様は十字架でその罪を担ってくださいました。そのため私たちは、神様を遠い存在としてではなく、「天のお父さま」と呼び、祈ることができるのです。
「絶えず祈りなさい。」これは、私たちを苦しめる重い命令ではありません。神様が私たちを愛し、共に歩みたいと願っておられる招きの言葉です。長い祈りができなくても構いません。美しい言葉でなくても構いません。「主よ、助けてください。」「ありがとうございます。」「守ってください。」その一言でも、神様は聞いてくださいます。
私たちは弱い者です。だからこそ祈ります。私たちは不安を抱える者です。だからこそ祈ります。私たちは神様なしには生きられない者です。だからこそ絶えず祈るのです。この一週間も、祈りのうちに主と共に歩んでまいりましょう。

アーメン。
                                                  著:中澤竜生