聖書箇所 Ⅰテモテ2章1~4節
「そこで、私は何よりもまず勧めます。願い、祈り、とりなし、感謝を、すべての人のためにささげなさい。王たちと高い地位にあるすべての人のためにもささげなさい。それは、私たちが敬虔と品位をもって、平安で落ち着いた生活を送るためです。このことは、私たちの救い主である神の前に良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」
私たちは祈るとき、何を祈るでしょうか。病気の癒しでしょうか。家族の健康でしょうか。仕事や生活が守られることでしょうか。教会の必要や将来のことを祈るでしょうか。それらはどれも大切な祈りです。神様は私たち一人ひとりの必要をご存じであり、「求めなさい。そうすれば与えられます」と約束してくださいました。
しかし今日の御言葉で、パウロは「何よりもまず」と語ります。つまり、祈りには優先すべきものがあるということです。それが「取りなしの祈り」です。
取りなしの祈りとは、自分の必要だけを神様にお願いする祈りではありません。神様の御心を求め、その御心に立って、他の人々のために神の前に立つ祈りです。私たちは自分の願いを祈りますが、それ以上に神様が何を願っておられるのかを知り、その願いを自分の祈りとすることが、取りなしの祈りの本質なのです。
その理由は、4節に記されている神様の御心にあります。
「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」
ここに神様の心があります。神様は一部の民族だけを愛しておられるのではありません。日本人も、ユダヤ人も、中国人も、アメリカ人も、すべての国の人々が救われることを願っておられます。すでに教会に集っている人だけではなく、まだイエス・キリストを知らない人々も、神様は等しく愛しておられます。
子どもが迷子になったとき、親は何よりも先にその子を捜します。食事も仕事も後回しになります。「早く見つかってほしい。」それが親の心です。同じように神様は、失われた人々が救われることを願っておられます。取りなしの祈りとは、その神様の心を自分の心として祈ることなのです。
その取りなしの祈りを最も完全に示されたお方が、主イエス・キリストです。主は十字架にかけられた時でさえ、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。自分を苦しめ、十字架につけた人々のために祈られたのです。
さらにヘブル人への手紙7章25節には、主イエスは「いつも生きていて、彼らのために取りなしておられる」とあります。主は二千年前だけでなく、今この時も天で私たちのために取りなしていてくださいます。もし主の取りなしがなければ、私たちは弱さに負け、罪に倒れ、希望を失ってしまうでしょう。しかし主が今も祈ってくださるから、私たちは支えられています。だからこそ私たちも、誰かのために祈る者へと招かれているのです。
では、私たちは誰のために祈ればよいのでしょうか。パウロは「王たちと高い地位にあるすべての人のためにも」祈るように命じています。当時のローマ皇帝はクリスチャンではありませんでした。むしろ教会を迫害する立場にありました。それでもパウロは祈りなさいと言います。
それは政治的な支持を意味するものではありません。福音のためです。平和な社会であれば礼拝が守られ、福音を自由に語ることができ、宣教が進められます。だから教会は国家のために祈るのです。
その祈りは、まず自分たちの国、日本へと向けられます。聖協団は創立以来、日本の救いのために祈り続けてきました。戦争、戦後の混乱、高度経済成長、バブル崩壊、震災など、時代は大きく変わりました。しかし祈りは変わりませんでした。「日本がキリストを知るように。」この祈りが受け継がれてきたのです。
祈りは種まきに似ています。蒔いたその日に収穫はありません。しかし蒔かなければ実も結びません。先達たちは涙をもって祈りの種を蒔き続けてきました。私たちはその畑を受け継いでいます。だから今も、日本の救いとリバイバルのために祈り続けるのです。
しかし神様の救いのご計画は、日本だけにとどまりません。聖協団はイスラエルのためにも祈ってきました。神様はアブラハムを選び、イスラエルを通して救いの歴史を進められました。律法も預言者も、そして救い主イエス・キリストもイスラエルから来られました。
私たちがイスラエルのために祈るのは、政治的な理由ではありません。パウロはローマ人への手紙10章1節で、「私の心の望み、また彼らのために神に願うことは、彼らの救われることです」と語っています。またローマ人への手紙11章では、異邦人の救いを通してイスラエルに良い意味での「ねたみ」を起こさせ、メシアへと導こうとする神様のご計画も示されています。私たちは日本にもイスラエルにも、そして世界中のすべての人々にも福音が届くように祈るのです。
その祈りはさらに、「御国が来ますように」という祈りへと広がります。御国とは神様の支配です。神様の支配がまず私たち一人ひとりの心に始まり、家庭、教会、地域、社会へと広がっていくことです。福音が宣べ伝えられるところに、御国は前進します。だから私たちは、「主よ、日本に御国を広げてください。主よ、イスラエルに御国を広げてください」と祈るのです。
しかし御国は、人間の努力だけで完成するものではありません。初代教会は「マラナ・タ(主よ、来てください)」と祈り、キリストの再臨を待ち望みました。この世界には戦争、災害、病、死があります。どれほど努力しても、完全な平和は人間の力では実現できません。しかし主イエスが再び来られる日に、涙はぬぐわれ、死は滅ぼされ、神様の御国は完全に実現します。
これこそ取りなしの祈りの最終目的です。すべての人が救われ、福音が全世界に宣べ伝えられ、主イエス・キリストが再び来られることです。
取りなしの祈りとは、神様の救いのご計画に参加する祈りです。家族のため、地域のため、日本のため、イスラエルのため、世界のため、そして御国の到来と主イエス・キリストの再臨のために祈ることです。
聖協団の先達たちは、そのように祈り続けてきました。私たちもその祈りを受け継ぎたいと思います。
「主よ、日本を救ってください。主よ、イスラエルを救ってください。主よ、世界に福音を広げてください。そして、主よ、来てください。」
この祈りをもって歩む教会であり続けたいと思います。
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