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永遠のいのち

 

 

 

アブラハムは、神の召しに従って行き先を知らずに旅立ち(ヘブル11:8)、試みに会った時には、約束の子イサクさえも献げようとしました(11:17)。聖書は「アブラハムは神を信じ、それが義とされた」と語ります(創15:6)。義とは、小羊であるイエスの下に「我」が置かれ、神の前に罪なき者とされることです。ノアもモーセもエリヤも同じく信仰によって義とされ、永遠のいのちを与えられました。

 

預言者ヨナは使命から逃げましたが、嵐と大魚を通して神に立ち返り、ニネベで神の裁きを宣言しました。人々が悔い改めると、神は滅びを思い直されました。ここに「隣人を愛し、自分の魂を大切にする」信仰の姿が表されています。

 

イスラエルの歴史もまた、神への信頼と偶像礼拝の間を揺れ動きました。異邦人を通して神の計画は進められ(ラハブ、ルツ、モーセやヨセフの妻たち)、やがてダビデやソロモンへと系譜は続きました。しかし偶像崇拝によって国は分裂し、北王国はアッシリヤに、南王国はバビロンに滅ぼされました。捕囚からの帰還後、エズラらは律法を厳格に守る改革を行い、ユダヤ教が形作られていきました。

 

やがてイエス・キリストが来られ、律法に縛られた礼拝ではなく、真心からの礼拝と愛に満ちた行いを教えられました。安息日に人を癒された主の姿は、形式ではなく愛を重んじる神の御心を示しています。しかし律法主義に固執した者たちは反発し、ついにはイエスを十字架にかけてしまいました。

 

この歴史を通して語られることは、義と永遠のいのちは「信仰による神への信頼」によって与えられる、ということです。アブラハムのように従い、ヨナのように悔い改め直し、イエスのように愛に生きること――それが永遠のいのちへの道なのです。