勧め E・U
私の実家には仏壇と神棚があり、父が毎年お盆や正月にお飾りを準備していました。幼い頃、私はその材料を跨いでしまい、大変厳しく叱られたことがあります。父は毎朝仏壇に供え物をし、線香をあげて祈っていました。その姿を見て育った私は、何かあると仏壇や神棚の前で手を合わせるようになりました。
高校を卒業して上京し、一人暮らしを始めた2年目の秋、友人の誕生日プレゼントを探していた時、アンケートに答えたことがきっかけで新興宗教に入り、初めて聖書を手にしました。「天地創造」や「十戒」などの映画も観て大変興味を持ちました。創世記1章1節「初めに神が天と地を創造した」、1章27節「神は人をご自身のかたちに創造された」という御言葉に大きな感動を覚え、半年間その学びに通い続けました。
しかしある日、私を心配した学生時代の友人二人が教会へ連れて行ってくれ、その新興宗教の誤りに気づかされました。牧師先生の勧めでその場から脱会を伝えました。田舎に帰ろうかと迷っていた時、イザヤ55章6節「主を求めよ。お会いできる間に」をクリスチャン新聞で読み、東京にいる今こそ神を求めるべきだと思わされました。クリスマス集会で「イエス様はあなたの罪のために十字架にかかられた」と語られましたが、最初は自分にどう関係があるのか分かりませんでした。
その後、新年に礼拝に出席した時、不思議なことに讃美の中で涙が止まらなくなりました。牧師先生から三浦綾子さんの『塩狩峠』を借りて読み、主人公が自らの体を犠牲にして列車を止めた場面を通し、十字架で私の罪のために死んでくださったイエス様と重なり、魂が強く打たれました。すぐに「イエス様を救い主と信じます」と告白し、1988年4月3日に洗礼を受けました。
その後、結婚に導かれ、家庭を持ちましたが、7年後に母が60歳で末期癌と診断される大きな試練に直面しました。母に付き添って看病する日々は苦しいものでしたが、神様は祈りを通して母の痛みを和らげてくださることもありました。見舞いの人々に母が「娘が祈ってくれたら楽になった」と話してくれたことは、私にとって神の慰めでした。伝道の機会も与えられ、母に福音を語る恵みもありました。
看病の日々、時には疲れ果て、また恐れを感じることもありましたが、神様は「あなたがたのあった試練は…耐えることのできないような試練ではない」(コリント第一10章13節)という御言葉で励ましてくださいました。
振り返ると、どの時も神様が共にいて、御言葉と祈りを通して支え、慰め、導いてくださいました。私は救い主イエス様に出会い、永遠のいのちをいただき、今も主と共に歩む幸いをいただいています。ハレルヤ!