「いのちのパン」

イエスは言われた。

「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」
ヨハネの福音書6章35節

 

このみ言葉は、イエス様がご自分を「いのちのパンです」と示された大切な場面です。

6章には、イエス様が「天からのまことのパン」「いのちのパン」「天から下って来たパン」「天から下って来た生きたパン」など、似た表現を繰り返し語っておられることに気づかされます。

この35節のみ言葉を理解するためには、まず当時の時代背景や人々の置かれていた生活状況を知ることがとても大切です。

当時のユダヤ社会では、現代のように食べ物が豊富ではなく、パンは命そのものを支える主食でした。パンがないということは、生きる希望を失うことにもつながる時代です。多くの人々が、その日の糧を得るために毎日働いていました。さらに当時のイスラエルの人々は、ローマ帝国の支配の下で重い税に苦しみ、貧しい生活を送る人も少なくありませんでした。これらのことを踏まえたうえで、み言葉を共に見ていきたいと思います。

6章の前半には、イエス様が少年の持っていた五つのパンと二匹の魚で五千人の人々の空腹を満たし、さらに余ったもので十二のかごがいっぱいになったという奇跡が記されています。普通に考えても、五つのパンと二匹の魚だけで五千人もの人々のお腹を満たすことは不可能です。

しかし、これは単なる食事の奇跡というだけではなく、「神様が人を養われる」というしるしでもありました。

このような奇跡を目の当たりにした人々は、6章14~15節にあるように、「まことに、この方こそ世に来られるはずの預言者だ」と言い、さらに「この方こそ自分たちを養ってくれる王だ」と期待して、イエス様の後を追っていました。

しかしイエス様は、人々が求めていたものが「ただの食べ物」であることを見抜いておられました。

6章26節では、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」と語られています。つまり人々は、空腹を満たしてほしい、生活を楽にしてほしい、苦しみから解放されたいという思いで、イエス様を追い求めていたのです。

しかしイエス様は、「人の魂の飢え」という、もっと深い問題をご覧になっていました。

27節では、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです」と言われました。

食物があっても、それは肉体を養うだけにすぎません。人は満たされているように見えても、心の空しさを満たすことはできず、安心を求め、愛を求め、生きる意味を求め続けます。

このような人間の深い飢えに対して、イエス様は「わたしがいのちのパンです」と語られました。この「いのち」とは、単なる肉体の命ではなく、神様との交わりの中にある永遠のいのちを意味しています。

また、この35節の言葉の背景には、旧約聖書でイスラエルの民が荒野で飢えたとき、神様が天からマナを降らせて養われた出来事があります。しかし、そのマナを食べた人々も、やがては死にました。けれどもイエス様は、「天から下って来たまことのパン」として、ご自身を示されたのです(47~51節)。

つまり、マナは一時的な食べ物でしたが、イエス様は永遠のいのちを与えるお方であるということです。

以上の中から、大切な要点が三つあります。

 

一つ目は、人間には「魂の飢え」があるということです。

物質的にどんなに豊かであっても、世の中で成功しても、人々から高い評価を得たとしても、それらは一時的なものにすぎず、人の心は本当に満たされることはありません。私たちには、深い愛情や人とのつながり、生きる意味や目的、そして神様による心の救いと満たしが必要なのです。

 

二つ目は、イエス様だけが本当のいのちを与えることがおできになるということです。

イエス様は教えだけを与える方ではなく、ご自身がいのちそのもののお方です。

イエス様はご自身を「いのちのパン」と言われました。パンは細かく裂かれて食べて初めて私たちの栄養になります。同じように、イエス様は十字架の上で私たちの罪の身代わりとなり、ご自身のからだを裂き、いのちをささげてくださいました。そして墓に葬られましたが、三日目によみがえり、今も「生きたパン」として、信じる(食べる)私たちに永遠のいのちを与えてくださいます。これこそ十字架の恵みです。

 

三つ目は、「来る者」「信じる者」は満たされるという約束です。

イエス様は、立派な人だけを招いておられるのではありません。疲れた人も、迷っている人も、心が渇いている人も、主のもとへ来るようにと招いておられます。

そして、来る者には決して飢えることがなく、信じる者にはどんなときにも決して渇くことがないと約束してくださいました。

私は以前、キリスト教の異端と言われている宗教を信じていました。そこで語られている教えに興味を持ち、半年間通い続けていました。

そのような私でしたが、ある日、ノンクリスチャンの二人の友人を通してキリスト教会へ導かれ、聖書のみ言葉から自らの誤りに気づかされ、その宗教を脱会しました。

その後の私は、教会へ通うこともなく、友人たちと食事に行くなどして楽しんでいました。しかし、このままでよいのだろうかという満たされない思いと、東京を離れて故郷へ帰ろうかという迷いの中にありました。

ある時、クリスチャン新聞の福音版に目が留まりました。

「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。」
(イザヤ書55章6節)

この機会を逃してはならないと思い、以前から誘われていたクリスマスの集会に参加しました。そこで十字架のメッセージを聞いたことがきっかけとなり、教会へ通うようになりました。

間もなく、三浦綾子さんの本を通して、神様が私を愛しておられることを知り、神様がお遣わしくださった「いのちのパン」であるイエス様を信じ、永遠のいのちをいただく恵みにあずかりました。

以来38年間、イエス様はいつも共にいてくださり、恵みと平安、励ましと力、そして必要な助けを与え続けてくださり、今日まで私の歩みを支えてくださっています。本当に感謝しています。

現代もまた、心が飢えやすい時代です。

インターネットやAIの普及によって、多くの情報を簡単に得られるようになり、有効に活用できるという利点があります。しかしその一方で、何が真実なのか分からず不安になったり、人との関わりが少なくなって孤独を感じたり、物質的には満たされていても心は疲れ切っている人が少なくありません。

このような時代の中にあって、私たちの魂の飢えと渇きを本当に満たすことがおできになるお方がおられます。

イエス様は、今も私たち一人ひとりに向かって、こう語っておられます。

 

著:薄井恵美